お世話になっております。(石榴の花が咲いてる。)です。
長く続いた酷暑がようやく引いた、と思いきやにわかに冷え込んで参りましたが、いかがお過ごしでしょうか。
ここのところ主催・中野雄斗の多忙にかまけてすっかりご挨拶が遅くなってしまいましたが、本年3月17日をもって(石榴の花が咲いてる。)は旗揚げから10周年を迎えました。これもひとえに、みなさまの日頃のご愛顧のおかげです。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
さて、(石榴の花が咲いてる。)は本日をもって無期限に劇団活動を休憩します。これまで(石榴の花が咲いてる。)に関わってくださったり、気に掛けてくださったり、そしてそれ以外すべてのみなさま。ありがとうございました。みなさまおひとりおひとりのおかげで、(石榴の花が咲いてる。)はここまでやってこれました。
あくまで休憩ですので、ふとした機会にまたお目にかかることがあるかもしれません。その際には、またどうぞよろしくお願いします。
以下、中野より休憩に際しましてご挨拶申し上げます。
先に申し上げた以上の内容はございませんので、もしお時間ございましたら、お目通しください。
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こんばんは。(石榴の花が咲いてる。)の中野です。劇団よりご挨拶がありましたが、(石榴の花が咲いてる。)は休憩することになりました。
これまでご参加くださった皆様、ご覧くださった皆様、気に掛けてくださった皆様、そしてそれ以外すべてのみなさま。本当にありがとうございました。休憩なので、ふらっとまた何かを実施するかもしれません。そのときには、なにとぞよろしくお願いいたします。
なぜ休憩なのか、なぜ休憩するのか、個人的にはいくつか思うところがあるのですが、それをいちおう記しておこうと思います。
大したことは書きませんので、もしお時間があればお読みください。
といっても、「生活と演劇公演とのバランスをとることがいよいよ難しくなってきたから」というのが理由の大部分を占めています。この世には社会人やりながら演劇を続けている先輩も同輩も後輩も、数えきれないくらい、いるのですが、私にはちょっと大変になってきてしまった。それだけのバイタリティも才能も誠実さも、自分にはないことを思い知らされました。なので、今後は少なくとも表方(どこまでを表とするのか、少々悩ましいところではありますが)として演劇に関わることは一切なくていいや……と最近まで思っていたのですが。
過日、中野の個人的な企画として上演しました『ミミ ~ミソジニー演劇 vs ミサンドリー演劇~』が、思いのほか想い入れ深い公演になりました。いや、いつでも入魂の作を創り続けてはいますが……
『ミミ ~』という作品が、こんにちを生きる私たちのこと、そして私たちをとりまく〈暴力〉というものについて、考える1つのきっかけになれると手前ながら想っています。できればこれは、来年以降も年に1回くらいのペースでブラッシュアップしながらやっていきたいし、さらに欲を言えば、いろんな演出家にも上演してみていただきたいな、と思います。
なので、個人的に1つのレパートリーを細々と続けていく、みたいなことはやっていくかもしれません。年に1回くらいだったらなんとかなるんじゃないだろうか。あんまり自信ないけど。
大きな理由としてはもう1つあって、それは「生活と演劇とを切り分けて考える必要がなくなってきたから」、ということです。
「おいさっきまでと言ってること違うやんけ」と思われるかもしれません。じっさい真逆のことを言っているようにみえるかもしれませんが、〈演劇公演〉と〈演劇〉、この2つには微妙な違いがあると思います。
いわゆる〈演劇公演〉として立ち上がるものだけが〈演劇〉ではない、と私はいま考えています。演劇公演において描かれるのは、多少の差異こそあれ、概ね「人間について」ではないでしょうか。
であるならば、演劇公演とは人間の生きざまの表れであり、演劇公演を打つという営みをもひっくるめて、「人間について考える」ことが〈演劇〉なのではないか、と考えています。まぁこのあたりは私が師と勝手に仰いでいる、ある方からの受け売りでもあるのですが、そのことが実感を伴ってくるようになったのが、休憩するにあたって大きな要因となりました。
演劇というものは、人間について記述する媒体として非常に興味深いと想っています。また、(これは他の芸術にもいえることですが)その〈場〉で語られることが倫理的・規範的に正しくても正しくなくてもいい、というのも良いところです。創りものである以上、舞台上ではどんなことが起きてもいいし、どんなことでも起こせる、というある種のいいかげんさが演劇にはあります。ものすごく乱暴に言えばひとが集まってなんかやっている、それだけで演劇は成立してしまうのですから。なんていいかげんで、なんて豊かなのだろうと想います。
そもそもヒトの歴史自体、ある時点では正しいと思われていたけれど今日ではそうとも言えない、ということがいくらでもありますよね。すぐに思いつくところではティラノサウルスの復元想像図とか、でしょうか。前傾姿勢になってみたり羽を生やしてみたり、何回変わるんだよ、というくらいに変遷がありますが——とはいえ、ティラノサウルスについては現代人が「だれも正しい姿を知らない」というのが理由として大きいと思いますが——、それだってとても豊かなことではないでしょうか。正しいということを知らない/証明できないからこそ探求する、ということが、学問や芸術をやることの歓びのひとつだと想うのです。
演劇や、ひいては人間についてもそうだと思います。歴史の積み重ねによって善いありかたはある程度構築されてきているけれども、いま最良だと思われているやりかたが後の世からみたら間違っているかもしれないし、もっとよいありかたが構築されるかもしれない。そういったことを考えながら、日々すこしでもより善くあれるようにいることがわたしにとっての〈演劇〉なのだと想っています。そうあれるように努めることを、いまは重視したいです。
わたしはこれからこう生きていきます、という所信表明みたいなものになってしまいました。長々と失礼しました。
冷え込んでまいりましたので、どうかご自愛くださいませ。
またどこかでお会いすることがありましたら、そのときはよろしくお願いいたします。よいお年を!
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